その日、JDC(日本探偵倶楽部)の受付に、一人の少女がやってきた。一分の乱れもない笑みで対応した事務員に、少女は第一班班長の刃仙人への面接を希望した。DOLLからA探偵と認定される超多忙な探偵に、何のアポもなく会いに来る少女の希望が通ることはまずない。しかし、真剣な顔で急を要する人命に関わると告げるので、事務員は困惑した。そして対する少女は、その数倍困惑していた。
そして数分後。 「仙人さ〜ん!!!!!」
扉を勢いよく開ける音とともにそんな叫び声が飛び込んできた女性によってもたらされた。
突然の騒音に、呼ばれた本人以外の人物の視線も扉、もとい扉を開いた女性に向けられる。いや、女性と呼ぶには少々幼い顔立ちである。柔らかそうな長い黒髪はぐしゃぐしゃに乱れ、愛らしいが美人の範疇には届かない顔には化粧けがないせいかもしれない。せいぜい十代後半のように見える。
「す、すみません、」
警備員の中鉢比呂也がよろよろと後ろから顔を出す。その顔は戦場を駆け回った兵士のように疲労しきっていた。
「止めようとは、したのですが、」
どうやらこの少女、警備員たちの手をかいくぐってこの部屋まで来たらしい。一体何の用なのだろうかと、班員全員が得意の推理を始めた途端、少女は刃に駆け寄った。
「仙人さん、」
「あ、もしかして、くんか? 元気に」
「私をお嫁さんにしてください!!」
ひし、と一班室の空気が固まった。そんな空気を察しているのかいないのか、少女は刃の腰に抱きついた。
「お願いです!! 掃除洗濯料理に行ってらっしゃいのちゅーでも何でもします! 浮気したって甲斐性だと思って目を瞑ります! 神経性胃炎で入院しても、甲斐甲斐しく看病します! ですからお嫁さんにしてください!! いえ、この際事実婚でも愛人でも居候でも家政婦でもいいです!! 仙人さんの家においてくださいいいいい!!」
はじめは硬直した刃だったが、少女が必死に叫ぶ声で我に返り、少女を引き剥がすことに成功した。
「ちょ、ちょっとくん。落ち着いてくれ。」
「なんか騒がしいな。なんかあったのか?」
立ち尽くす中鉢の後ろから、天城漂馬が顔をのぞかせた。大きな欠伸を噛み殺しているところを見ると、どうやら居眠りをしていたところを、この大騒ぎで起こされたらしい。
「あ、漂馬くん!」
刃に肩を押さえつけられていた少女は大袈裟な動作で後ろを振り向き、天城を指差した。
「ああ! もう、この際君でもいいよ!! 仙人さんがいいと言ってくれないなら、君が私をもらって!!」
「はああ?!」
「くん、本当に落ち着いてってば。」
「落ち着いていられないのよおおおおお!!!!」
鴉城蒼司は苦笑をしてソファーに二人を座らせた。
「落ち着いたか、?」
「ええ、もう十分落ち着きました。どうも、お騒がせして申し訳ありません。」
少女は立ち上がり、鴉城と刃の二人にしおらしく頭を下げた。
「それにしても、懐かしいな。何年ぶりになるんだ?」
「八年ぶり、だと思います。」
鴉城の問いに少女はおっとりと微笑んで答えた。これが先程までエキサイトしていた少女と同一人物とは思えないなと、刃は密かに苦笑した。
少女の名前はという。八年前に起こったある殺人事件の被害者の遺族に当たる。その事件により彼女は家族を失い、事件後は京都の東の方で一人暮らしを始めたと刃は聞いていた。何故そこまで詳しいかというと、その事件を担当したのが刃であり、事件の最中に彼女と話をしているうちに仲がよくなり、現在まで年賀状を送り合う程度の付き合いが続いていたからである。事件の関係者と事件後にも付き合いを続けることは稀であるが、刃はまだ幼い少女の生活が気にかかり、彼女が一人暮らしに慣れるまで何かと世話を焼いていたのである。
「ところで、今日は何があったんだ?」
事件を告げる電話に出ることを中断してまで彼女の話を聞いているのは、の祖父が鴉城の祖父、鴉城蒼神の友人だったからである。彼自身、家の事件の最中からのことを娘のように気にかけていたのである。
「ええ、実は・・・お恥ずかしい話ですが、現在私は宿無し文無しなんです。」
以下、の話をまとめたものである。
が家族を失ったのはまだ高校生の頃であったが、家族の保険が降りていたため、当分は生活に困ることはなかったのだそうだ。京都の東側にあった実家も売り払い、顔馴染みの老女の下宿に住み込み、そこから高校へ通うこととなった。
だが数ヵ月後、父親に莫大な借金があることが判明した。そこそこの資産家であり、また人情家であった父は、知り合いの借金の保証人をしていたらしい。それも複数の保証人を買って出ていたらしく、は頭を抱えた。保険と、相続した遺産で払いきれる額だったのだ。だが、すべて払ってしまうと残るものはわずかであり、のんびりと高校大学に通うわけにはいかなくなってしまうのだ。それでもこのまま払わずに利子だけが増えていくよりは、とその場で借金はすべて返済し、残ったわずかな財産とアルバイトで学業に勤しんだ。下宿代は、老女がの境遇に同情してか、ずいぶんと安い額が提示されていたので、そこまでひどい生活はしていなかった。そして数年が経ち、大学を卒業したは小さな出版社に勤め始めた。初めは慣れない職場に疲労の重なる毎日であったが、段々に慣れてきて、入ってくる給料も格段によくなっていった。最高の生活、とはいかずとも、まずまずの生活を送っていた。
だが不幸がやってきた。
まずは、勤めていた出版社の倒産である。幸運だったのは、給料日の前日ではなかったことであろう、とは考えた。月末に倒産されては困る。 は途方に暮れながら下宿へと戻った。大家に泣きついて慰めてもらおうと思いながら扉を開け、老女の部屋に入ると、老女は変わり果てた姿で横たわっていた。
「もう、お年でしたから。心臓の発作だったそうです。」
寂しそうに微笑んだは、その後老女の家族と連絡を取り、何とか葬式を終えたばかりなのだと告げた。
「それで、おばあはんの家族の方が悪いけどもう下宿は、と仰るので、私も物分りのいい顔をして出て行ってしまったんですよね。どうにかなるかな、と数日はカプセルホテルを転々としていたんですけど、このご時世、仕事はなかなか見つからないんです。」
それで以前世話になった刃のことを思い出したらしい。もう何年も年賀状のやり取りしかしていない相手を頼るのはためらわれたが、ままよ、とJDCに乗り込んできたらしい。
「ずいぶんと、大胆になったな。」
「八年も、ありましたから。変わりますよ。」
「それでどうして、お嫁にしてください発言になるんだ?」
「あ、蒼司さんでも解けない謎を持ってきちゃいました、私?」
がいたずらっぽい笑顔を浮かべるので、鴉城は苦笑した。刃は困ったように首を傾げている。
「どうせこれから働かなければならないなら、永久就職してやれ、という発想か?」
は笑って「そうです。」と答える。刃はますます困ったような顔をする。
「くん、そう簡単に決めてもいいものじゃないだろう、結婚って。」
「仙人さんは、お嫌ですか?」
「あ、いや、そうじゃなくてだね、」
「私は、仙人さんのことが好きですよ? 八年前から、ずっと。」
刃は眼鏡のブリッジを押さえた。
当時のにそう告白されたことはあった。だが、殺人事件という得意な状況における錯覚だろうと刃は推理して、そのときは曖昧に流しておいたのである。けれども、月日が磨り減らしてしまうだろうと思われていたの好意は、現在になっても磨耗していないようだった。
刃自身、彼女に好意は持っている。けれど、その好意がどういった類の好意であるかは図りかねている。彼女と同じような好意なのか、それとも幼い少女のような娘への父親のような好意なのか。
刃が困惑してしまったのを察し、鴉城は新たな案をに提示した。
「うちに来るか? 蒼也も歓迎するだろうし、まあ、狭くはないから部屋はあるぞ。」
「いえ、ご家族がいる方にご迷惑をおかけするわけには、」
「それでも、漂馬のやつのところに嫁に行くよりはマシだぞ。」
鴉城は天城のことを探偵として信頼はしていたが、この少女を預けることにはさすがに躊躇しているらしい。名前の通り流浪してばかりいる男では、逆には不安であろう。そういった点を考えると、もともと仲がいいということもあって確かに刃を頼るのは得策と思えた。
「けど、私の家に泊まるって、その意味を本当にわかってるのかい? 私は構わないけれど、君が周りから何と言われるか。」
「あら、既存の常識にとらわれていては、探偵さんは勤まらないんじゃないですか?」
あらかた話したところで鴉城の電話が鳴り始めてしまったので、二人は一階の喫茶室に移動した。
「そういう問題じゃなくて、」
「よう、押しかけ女房。」
刃の言葉をさえぎるように現れた天城は空いている席に座った。
「漂馬くん、なあに、その押しかけ女房って?」
天城はにやりと笑った。
「一班の中じゃあ、今かなり噂の的だぜ、嬢ちゃん。あのジンさんのとこに、押しかけ女房が来たって。」
天城漂馬も八年前の事件のときにたまたま現場で捜査をしていた人物の一人である。両親を殺されておろおろしていたをうっとうしいと思いつつも、放ってはおけずに構っているうちに、なんとなく仲がよくなっていたのである。
「押しかけ女房、ってことになるのかしら。ねえ、仙人さん?」
「なるんじゃ、ないかな。」
「なんだよ、かなり呑気だな、二人とも。もっと慌てたりしてもいいんじゃねえの?」
「あら、だって、私は本当に奥さんになっても全く構わないんだもの。」
にこりとが笑うので、刃は困惑した顔をし、天城は苦笑した。
「お前さん、かなりしたたかになったな。人見知りのお嬢様はどこ行ったんだよ。」
「八年も自活してればしたたかにもなるわよ。おっとりお嬢様じゃ、何にもできないわ。」
その瞬間、ほんの一瞬だけ、疲れたような色を声に滲ませたのを、刃は聞き逃さなかった。ついの目を覗き込んでしまったが、本人は何事もなかったかのように微笑んでいる。
「あ、」
「ま、そのうち事情を知らねえやつらから質問攻めにあうと思うぜ、旦那さま。」
からかいを含んだ調子でそう言い残し、天城は去って言ってしまう。何をしに来たんでしょうね、とくすくす笑いながら言うに、刃は躊躇いつつも提案した。
「くん。じゃあ、本当にうちに来るかい?」
「え?」
「いや、下心とかは全くないんだけど、実際、一文無しの女の子がここら辺で住むところを確保しながら働くのは、大変だろう?無償でもいいけど、それじゃあ君の気がすまないだろうから、食事と掃除をしてくれれば、拙宅に招待するけど。」
一回りも年下の娘相手を口説いているような妙な照れに襲われながら、刃はの目を見ないで言った。見なくても、彼女が驚いているのはなんとなくわかる。
「あ、あの、本当によろしいんですか? その、本当に押しかけ女房みたいになってしまいますけど。」
先ほどのしたたかさは片鱗も見せずに、は遠慮がちに尋ねた。
「ああ、その、私はそう言われても構わないんだけど。くんは、どうだろう?」
言ってから、とんでもないことを言っていることを自覚して、刃は頭に血が上るのを感じた。ちらりと見ると、も下を向いて照れているのを隠しているようだった。
「私は、その、構わないというか、逆にうれしいというか・・・。」
その意味するところを気付かないほど、刃も鈍感ではない。お互いに様子を窺うように顔を上げ、ぎこちなく笑った。
「よ、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
一瞬だけ、今までの生活がなんでもないことのように明るく笑う彼女が、寂しそうで疲れているように見えたから。
だから、誘ってしまったのだと、刃は後になってから思った。
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