シベリア鉄道 西へ 東へ
幽弥からの連絡は、刃を暗い気分にさせるには十分だった。 九十九音夢と、 が、自分の説得のために追ってきている。 音夢は、まだいい。彼女は自分を犯罪者として扱うだろう。 けれど、 は。 彼女には、ずいぶんと迷惑をかけたと思っている。 周囲からは押しかけ女房などと言われているが、最終的に彼女を自分の家に居候させたのは自分である。あの時、強引にでも鴉城の家に泊まるように薦めていれば、わざわざロシアに説得の要員として出張させられることもなかっただろう。 刃は、 が自らの意志で説得に来たとは思えなかった。そこまでの関係が、自分たちにあるとは思えない。ただの大家と店子、というわけでもないが、犯罪者となってしまった自分を連れ戻しにはるばる国境を越えるほどの仲ではない。恐らく、総代代行か、音夢自身についてきてほしいと頼まれたのであろう。 部屋に戻り、ベッドに腰かけて手を擦り合わせた。室内は暖かいのだが、凍えそうな外を窓から見ていると、思わずそんな動作をしてしまう。 そういえば、この仕草は祈りをしているように見えるのだと、そういう歌があると が言っていた。 何故そんなことを思い出したのかはわからない。祈りたい気分なのだろうか。
『ねえ、おじちゃん。今の人、彼女?』 病院にいた頃、見舞いに来た が帰ってから天野少年がそう言ったことがあった。 『いや、違うよ。』 『うっそだあ。刃のおじちゃん、今すっごく真っ赤だよ?』 無邪気に天野少年が言うので、刃は更に顔の体温が上がるのに気付いた。 『わかった。彼女じゃなくて、お嫁さんなんだ。』 そう言われたとき、自分は心底困惑してどうにかして天野少年の誤解を解こうとしたが、結局少年は =刃の妻という図式を譲らず、次に が見舞いに来たときに、「あ、刃のおじちゃんのお嫁さんだ!」と言い、二人して真っ赤になったのである。 けれども、その誤解は嫌なものではなく、花を活けてくると病室から逃げるようにして出て行った と目が合ったときは、お互いに照れた笑いを浮かべていた。 どこから、おかしくなったのだろう。あの頃はまだ、そんな微笑ましい状態でといられたのに。 入院したあたりから? 毒林檎を食べたあたりから? JDCが爆破されてから?
「兄さん、あの って女も来るんだろ?」 「らしいな。」 「はっ、なら都合がいいじゃないか。あの女は兄さんに惚れてるから、ちょっと甘いことを言ってやれば、すぐに逃がしてくれる。うまくいけば、彼女にも一人の探偵を説得してもらえるかもしれないじゃないか。」 「それは無理だよ、天人。」 「なら、殺すしかないな。二人を。」 「天人、やめてくれ。 くんは、」 「優しいなあ、兄さんは。その優しさ、なんで僕に向けてくれなかったんだろうね。」 「天人、」 「はは。別にいいさ。気にしてないよ。」 頭痛がするような気がして、刃はこめかみを押さえた。手には、いれたばかりのココアが湯気を立てるコップ。 がいれてくれるココアは、どんな店で出すココアよりもうまかったことを思い出す。たまに星型に切ったマシュマロを浮かべたり、砕いたナッツを入れたり、甘さの少ないホイップクリームを乗せたりと、いろいろ工夫した飲み方を考案していた。新しいココアができるたびに自分が試飲して、おいしいと言うと は心底幸せそうに微笑んでいた。 ココアの熱がコップを介して指に伝わる。刃の冷たい指を暖めようとして、自分の小さな手で指先を包み込んだ を思い出す。 できることなら、今すぐに に会って、ストーブの前で寄り添いあいたかった。
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