こんな私の一年後
そして一年後。 目の前に出された紙を睨んで私はしばし考え込んだ。
「婚姻届に見えますね。」 「それはこれが婚姻届だからダ!」 私は現在、神田にある榎木津ビルヂング内にある薔薇十字探偵社にいる。理由は簡単。絶世の美貌を誇る神に召喚されたからである。 そしてその神は、自信満々に胸を反らしてテーブルに一枚の紙切れを叩きつけた。
「一年経ったら結婚する約束だっただろう。」 ちっ、覚えていたか。 「なんで婚姻届ですか。神様なら、人間の作った制度に縛られる必要はないでしょう。」 なんて逃げてみたり。
「そうだ、そのとウりっ。しかし、ちゃんが云ったのだ。僕は神でも、自分は人間だから人間の法律の通りにしなければならないんだと!」 確かに云った。即座に正論でもって切り返されることを云ってしまうなんて、私らしくもない。よっぽど動揺しているのだ。 覚えていてくれたことが、嬉しくて。 それでも私は呆れた顔をした。
「でもね、エノさん。残念なことに、私はまだ未成年なんですよ。ですから、結婚には保護者の同意が必要なんです。」 「君の保護者とは誰だ?」 「ええーと、現在はタツ兄さんになってますね。ちょっと前までは祖父母だったんですけど、東京に来るときに、近くにいる親戚の方がいいだろうということで、手続きをし直したんです。」 すると、エノさんは、なんというか、形容しがたい顔をした。 「だとすると、僕は義理とはいえ猿の子供になるのか?」 エノさんが、タツ兄さんを「お義父さん」と呼ぶ図を想像してみた。 ・・・・・・駄目だ。面白い以前に、怖い。怖すぎる。
「いえ、私はタツ兄さんの養子ではないので、それはないと思いますよ。」 「そうか。ならいい。」 心底安心するエノさんを初めて見たかも。
「保護者の説得は、簡単に出来そうですね。」 「神の手にかかれば、不可能などないのだ!」 「でしょうね。」 この人は、自分の言葉を違えたことはないから。 特に、私に対して云った言葉は、すべて本当のことになるから。
「よし! ならば家を買いに行くぞ! ちゃん、他に欲しいものはないか?」 婚姻届に名前を書いて、印鑑はなかったから後で捺そうと云うと、エノさんは早速立ち上がって私の手を引いた。 「買いに行くって、本当に今から家と犬とレース編みの道具を買いに行くつもりですか?」 「なんだ? レース編みは出来ないのか? 犬より猫の方がいいのか?」 ・・・この人の思考法はよくわからない。 「そうじゃなくて・・・」 私は一体どう答えようか悩んだ。こういうとき、エノさんに振り回されてしどろもどろになるタツ兄の気持ちがよくわかる。もっとも、私は元々性格的にタツ兄の側にいるので、いつも判る気がしてしまうのだけれど。 私はテーブルの上に紙を見た。 たったこれだけ。 たったこの一枚の紙で、 私はこの人を拘束できるのだろうか? いつまでも、そばにいてもらえるのだろうか? 無理だろう。 この人は神なのだから。 人間ごときが、下界でしか通用しない規則を振りかざして神を拘束することなど、不可能だ。 私は婚姻届を引き裂いた。 エノさんは、さして驚いたようでもなかった。 逆に、珍しいくらいに穏やかに微笑んで私を見た。 「どうしたんだ?」 白磁のような指が、私の腕を解いて、頬に当てられた。そこでやっと、私は自分が泣いていることに気付く。 「病めるときも、健やかなるときも、汝、私の傍にいてくれますか?」 途中から、涙声になってしまって、ああ、私は今ひどく情けない顔をしているのだろうと思った。 「教会での結婚式がしたいのか?」 「・・・わかってる癖に。そんなの、絶対嫌です。だって、キリスト教だろうと神道だろうと仏前だろうと、なんかに誓いを立てるわけじゃないですか。ここに神がいるのに、なんでわざわざ他の人に誓いを立てなきゃいけないんですかっ!」 他の人に誓ったって、神は気まぐれで強大だ。そんな誓いは知らないとどこかへ行ってしまうかもしれない。 なら、神自身に誓ってもらおう。 そう云うと、 神は笑った。
「なんだ。女の子はそういうのに憧れるのかと思ったぞ。」 「私が普通の女の子みたいに、考えなしにそういうのに憧れるわけないじゃないですかっ。」 何を、怒鳴っているんだろう、私は。こんな、子供じみた我侭云って。これじゃあ、 私がいつも追いつきたかったこの人から、どんどん離れていくばかりじゃない。 ぐすぐすといつまでも子供のように泣いている私を見てどう思ったのか、エノさんは長い指で私の目元を軽く擦って耳元で囁いた。 「なら、僕は僕と君に誓おう。ずっと、ちゃんの傍にいるからな。」 私が憧れていたのは、 常に自信に満ち溢れた、目の間にいる神だけ。 テーブル越しのエノさんに抱きついた。
「私も、エノさんに誓います。」
反省会 「こんな私に〜」続編。本当に結婚する気か、姪っ子よ。 |