神と女学生
エノさんに再会したのは、私が上京してすぐの頃だったと思う。 私は初対面だと思うのだけど、周りに云わせれば私が物心つく前に一度エノさんに会ったことがあるらしいので、再会ということになっている。本当の初対面が一体どういうものであったのか全く覚えていないので誰かに聞いてみたいが、当の本人のエノさんはまともな回答をしてくれはしないだろうし、タツ兄さんは記憶力が悪いし、秋彦兄さんは・・・なんか嫌な予感がするので却下。 因みに、秋彦兄さんとの初体面は覚えている。五歳頃、確か祖父母宅にタツ兄さんと一緒に来ていたはずだ。 なんで来ていたのかしら。 諸事情により祖父母の下で育った私は、中学校以上に通うなら矢張り東京の学校に通うべきだと、元教師の祖母の意見で東京の知り合いの家に回されたのである。東京には伯父がおり、その伯父とは昔から何度も顔を合わせており、タツ兄さんタツ兄さんと私も慕っていたので、特に問題もなくそのタツ兄さんを保護者というか後見人というか、まあそういう感じの人として、私は祖母の知り合いの家に下宿することになった。本当はタツ兄さんの家に下宿したかったのだが、ただでさえ人間的に欠陥のあるタツ兄さんの世話で大変な奥さんにご迷惑がかかるなと思い、私は中野のある老夫婦の家に行くことになった。 それでもタツ兄さんも雪絵さんも二人とも好きなので、よく暇を見つけては遊びに行っていた。 ある日、いつも通りに学校から直接タツ兄さんの家に行くと、兄さんは出かける準備をしているところだった。生憎雪絵さんは留守だったので、じゃあ出直そうかなと思っていたところ、珍しいことにタツ兄さんが一緒に行くかと誘ってくれたのである。 兄さんについて奇妙な按配の坂を湯土塀に挟まれて登っていくと、一軒の家に着いた。 京極堂 私には書道の心得はないから、掛けられた看板の字が上手いのかよくわからない。それでも、わざわざ店の顔にするくらいなのだから、上手いのだろう。 タツ兄さんは何の気負いもなくその建物の中に入っていった。 「おい、京極堂、いるかい?」 そこにいたのは、久々に会う不健康そうな男性だった。 「やぁ、関口君。また来たのかい。来ないとなると何ヶ月も来ない癖に、こうして気が向くと毎日でも来るのだからね。全く、鬱陶しくて困るよ、君は。ああ、そんなところに座らないで、きちんと上がってくれたまえ。君は古本屋の客じゃないのだから、店にいる意味はないだろう。ちょうど榎木津もいるから、ちゃんも会っていくといい。」 古い本を読みながら滔滔と返事をしたその男の人は、タツ兄さんには見向きもしないで、喋り終わると私に顔を向け、少しだけ笑った。 「久しぶりだね、ちゃん。学校には慣れたのかい?」 「あ、秋彦兄さん! お、お久し振りです。はい、学校は、楽しいです。」 その返事にはやや虚偽が混じっていたのだけれど、そしてそれに秋彦兄さんは気付いたのだろうけれど、信じているかのような顔をして頷いた。 「それはよかった。良ければ上がっていきなさい。今日は千鶴子がいるから、ちゃんとお茶が出る。」 その台詞の後半部の更に後半部、つまりは最後の発言が気になったのだけれど、不思議なことなどなにもないのだろうと、不思議ではなく知識不足らしいところを尋ねた。 「タツ兄さん、千鶴子さんて、何方?」 玄関から回っていく間にタツ兄さんに尋ねると、兄さんは「ああ、ちゃんは知らないんだっけ。」と呟いた。 「京極の奴の細君だよ。」 「京極? それって、京極堂、っていうさっきの看板?」 「あいつもさっき云ってたけど、今、中禅寺は古本屋をやっているんだ。それの店の名前が京極堂なんだけど、それが通り名になってるんだ。」 「ふぅん。秋彦兄さん、結婚してたんだ。」 「かなり前にね。」 二人で玄関をくぐると、奥から綺麗な女性が現れた。 「いらっしゃいませ、関口さん。そちらが、以前話してらした姪御さんですか?」 「そうです。」 秋彦兄さんほどの深い付き合いではないらしくて、タツ兄さんは少し顔を伏せて答えた。タツ兄さんは、雪絵さん以外の女の人に対して、少し苦手意識を持っている。雪絵さんも、完全なる例外ではないみたいだけれど。 よくわかんないんだけどね。 「初めまして。店にいた朴念仁の妻の千鶴子です。」 「あ、こ、こちら、こそ。せ、関口、です。」 一方の私はといえば、男女関係なく初対面の人間は苦手なので、吃りながら吶吶と答えることになる。似た者同士なのだ。タツ兄さんとの血の繋がりが、一番濃いような気がする。 千鶴子さんに連れられて奥の方に行く。居間のようなところに通され、そこには茶卓と本と、仏頂面をした家の主がいた。 「いらっしゃい。」 タツ兄さんは指定席があるのか、躊躇せずに胡坐をかく。私はといえば、一体どこに座ろうかと悩んだ挙句、日当たりのいい縁側に座った。ちょうど柱があるので、そこに背を預ける。 「そんなところに座ってないで、中に入ってくださいな。」 お茶と大福を持ってきた千鶴子さんが笑って言うけれど、私は曖昧に答えた。 「いえ、あの、なんか、通り辛くて・・・。」 すると、秋彦兄さんが呆れたような溜め息を吐いた。 「エノさん、いつまで寝たふりをしているつもりですか。あなたが邪魔でちゃんが座れないそうですよ。」 そう、私が居間に入らなかった理由はただ一つ。部屋と縁側の境界線の橋のように、一人の男の人が寝ていたからである。 因みに、タツ兄さんは遠慮なくその人を跨いで入っていった。 学校から直接来たので、未だに制服姿なのである。スカートのままでさすがにそういった暴挙に出る気にはならない。 色素の薄い髪を揺らして、男の人は目を閉じたまま、ふふふ、と笑った。 「久々だな、ちゃん! 相変わらず可愛い!!」 え? 私はたぶん、目が点になったのだと思う。 ばちっ、とその男の人は目を開けた。 「大きくなったな! うん、あんなにちっさかったのに、こんなに大きくなった! もう女学生か。でも、まだまだ僕より小さいな。」 「ちゃんがエノさんより大きくなるわけないでしょう。」 「それは・・・嫌だな。」 秋彦兄さんとタツ兄さんの茶茶が聞こえているのかいないのか、その人は寝転んだまま私と目を合わせた。 「あ、あの、ど、どどちら、さま、でしょう、か?」 「猿みたいに喋るな! どちらさまだって!? 僕は神様だ!」 「エノさん、人を猿って呼ぶのはやめてくださいよ。」 「エノさん、ちゃんが怖がっているから、あまり近付かないように。」 満面の笑みを浮かべた男の人は、くるり、と身を反転させて両腕を立てた。ぬっ、と顔が突き出る形になって、私は思わず身を引いた。 「なんだ、覚えてないのか? 僕だぞ。」 「え、あ、あの、その、え、と、す、すみ、ません。お、おお覚えて、ない、です。」 こんな凄い人、一度会ったら忘れられないだろう。だから、たぶん本当は会っていないのだ。相手が勘違いしているだけなのだろう。 「いいかい、ちゃん。もう一度しか云わないぞ。僕は榎木津礼次郎だ。いいな? 覚えたな? さあ、云ってごらん!」 「え、えの、きづ、れいじろう、さん・・・?」 「よく云えました! 偉いぞ。」 そしてその礼次郎さんは、希臘彫刻のような綺麗な顔を思いっきり近付けて、私の額に口を寄せたのでした。
もちろん、この後タツ兄さんは固まりましたとも。私も十分恐慌状態に陥ったけど。
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