今回の事件には、私はほとんど関与していない。それなのに、秋彦兄さんは私からも魍魎を落とすと云う。タツ兄さん等は自分が最も関係ないと思っている様だが、鳥口さんに連れられて相模湖へ行き、この箱屋敷に辿り着いてしまった時点で、十分に関係者だ。それを云うなら、この美馬坂さんと云う人と昔からの知り合い(この場合の知り合いとは、秋彦兄さんが何時もタツ兄を評して云う「知人」とは別格の様だ)だという秋彦兄さんも関係者だ。

 けれど、憑き物落としは関係者ではできないから、秋彦兄さんは無理矢理自分を傍観者の視点に置いている。いや、置かざるを得ないのか。それとも、関係者たることができない? なら、簡単に関係者になって、彼方側に簡単に行く事ができるタツ兄を此方側に繋ぎ止めるには、うってつけの人間だ。

 

 

 ああ、だからか。

 

 

 だから秋彦兄さんは、タツ兄さんの関係者である友人の座ではなく、傍観者を気取る事が出来る「知人」でいようとするのか。なんだ。結局秋彦兄さんも、タツ兄のことが心配なんじゃないか。

 秋彦兄さんは、この巨大な館が人間の体だと云う。ならばその中にいる私達は、既に食われているのだ。食われ、その胃の中にいる。食われているならば、私たちは既に死んでいるはずだ。食われてもずっと生きているだなんて、何処かの異国の話じゃあるまいし。ああ、あれは食われた物が傀儡だったから平気だったのか。いや、その前に、傀儡を作った人間も食われた筈だ。傀儡には魂がない。だから、傀儡を作る人が、作っている間に自分の魂を少しずつ注ぎ込むのだと云う。だから、最高傑作を作った傀儡を作る者は、魂全てを使い果たした事になるから、死んだも同然だと秋彦兄さんが前に云った。なら、人間同然の傀儡を作ったその傀儡師も死んでいたのだろう。なら、やはり食われた者は死ぬのだ。我々も死んでいる。屍を食うのは・・・

 

 

 魍魎か。この大きな箱自体が、魍魎なのか。耳が長くなく、黒々とした髪ではなく只只頑丈なこの匣が、

 

 

 

「魍魎の、匣なんだ。」

 

 

 

 私がそう呟くと、秋彦兄さんはちらりと私を見てから美波絹子――いや、柚木陽子だったか――に一瞥をくれた。

 

 

 

 

 

 雨宮さん――私はこの人を見たことはない――が、私は非常に羨ましくなった。それはタツ兄も同じだった様で、目が、彼方側を垣間見ている時の目になっている。

「『匣の中の娘』は、全部本当のことだったのか!」

 タツ兄さんはゆっくりと崩れ落ちた。私には、タツ兄と同じ物が見える。色の白い、愛らしい少女の顔。それが、エノさんの云う様な四角い窓枠に嵌っていて、ぼうっと此方を見ている。

 

 

 

――ほう

 

 

 

 腹筋が無いから、言葉にならない。そうやって、息を漏らすしかないのだ。けれども、私には加菜子ちゃんの言葉が聞こえた。

 

 

――母に、

 

 

 ああ、秋彦兄さんが匣を指差している。

 

 

――愛してくれと

 

 

 その匣の中には、久保竣公が入っているらしい。

 

 

――父に、

 

 

 私は、久保さんに一度だけお会いした。

 

 

――愛してくれと

 

 

 頼子ちゃんの家に行った時だ。『新世界』という名の喫茶店で見かけた。加菜子ちゃんの写真を見て、大袈裟に慌てていた。私には、そういう覚えしかないはずなのに、イメージの中の久保竣公は全く違う。彼は、得られるはずだった愛情で満たされず、しかしその事を気にしていない風を装いながら、自分の中に何もないという事を恐れている。

 なら、加菜子ちゃんも同じだ。結局、陽子さんは美馬坂さんを愛していて、加菜子ちゃんではなく、美馬坂さんの娘である加菜子ちゃんを愛している。

 いや、違う。何を考えているんだ、私は。母親が娘を意味もなく愛すると云う事をしない訳がない。ほら、現に、陽子さんは加菜子ちゃんを失ってこんなに憔悴しているじゃないか。何でもかんでも、自分の興味が満たされる方向に物事を捉えてはいけない。彼女は、こんなにも加菜子ちゃんを愛しているじゃないか。

 

 

「私も、」

 

 

 愛してほしかったのに。

 

 

 母さんに、

 

 

 

 

 

 

 母さん、

 

 

 

 

 タツさん兄が、そろそろと動く。久保さんが入っている匣に近付く。

 久保さんは、満ち足りているのだろうか。欠けた指の分まで、得られなかった愛情の分まで、みっしりと綺麗に詰まっているのだろうか。

 ああ、なら、私も、

 タツ兄さんが匣に手を掛ける。

「タツ兄さん、」

「止せ!」

 秋彦兄さんの恫喝に、私とタツ兄さんの動きが止まる。ほとんど条件反射だ。秋彦兄さんの云うことに、私達はいつも逆らうことができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、秋彦兄さんが私たちにかけた呪いなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「向こう側に行きたいのか!」

 

 向こう側。

 

 いつも、タツ兄が遊びに行ってしまう場所。遊びに行くのは、楽しいからだ。幸福だからだ。こちら側が楽しくないから、幸福じゃないからだ。なら、向こう側に行けば、

 

 

 

 

 愛してくれる人もいるのだろう。

 

 

 

 

「どうやら、ちゃんに憑いているやつは、全く取れていないようだね。」

 

 彼方と此方の狭間辺りにいた私だが、秋彦兄さんが私の手首を掴んで匣から引き剥がしたので、辛うじて此方側に戻ってきてしまった。タツ兄さんは、くたくたとその場に座り込んでいる。

「き、京極堂。も、魍魎とは、いったい何だ。」

「魍魎とはな、関口。境界だ。」

 

 境界。

 

 ああ、だから、通り物を秋彦兄さんは魍魎と云ったんだ。

 

 

 

 その瞬間が過ぎていってしまった私には、匣はそれほど魅力的ではなくなった。彼方と此方の境界、そこが魍魎の住処。

 

 

 そして私とタツ兄さんは今、魍魎に誘われていた。

「落ちた、かな?」

「いや、ちゃんの場合は今回の事件で憑いた物じゃないからね。落とすのは、大変だよ。」

「秋彦兄さんでも?」

「この際だから、君に憑いている物も魍魎と一緒に落としてしまおうと思ったんだが・・・一筋縄じゃいかないな、君に憑いている奴は。」

 

 私に憑いている奴。

 

 

 

 

 

 それは一体誰なのだろう。

 

 

 

 

 

「ただ、これだけは忘れちゃいけないし、間違っちゃいけない。君は関口だ。関口巽の姪であり、僕らの友人だ。君は決して、柚木加菜子でも、久保竣公でも、ましてや関口巽でもない。」

 秋彦兄さんは私の腕を離し、再び鴉の様な姿で白蛇に向き直った。

 

 

 

 

 その後は、きちんと聞いていた。余計な事は考えず、関口は静かに黒衣の拝み屋の話を聴いていた。

 

 そして、白い科学者は、一瞬、拝み屋の言葉を信じてしまった。

 

「嘘なものですか。この僕が云うのです。」

 

 木場の旦那が匣に手を掛ける。

 

 

 

 

 そして、隣のタツ兄は、

 

 

 

 神がかった状態となる。

 

 

 

「まだ落ちてない。」

 

 

 そう呟くが早いが、陽子さんが動く。

 何か、光るものを持って。

 木場の旦那は硬直して。

 赤い、赤い体液が少し流れて。

 科学者とその娘は、久保竣公の入った匣を持って。

 色んな色の体液を撒き散らしながら。

 昇降機は、上へと進む。

 そして。



 

 

 

 

 

 匣の中に、闇が満ちた。



 

 

「エノさん。」

 そういえば、さっきからずっといなかった。私はなんだか物凄くほっとして、その場にへたり込みそうになる。

 エノさんはいつも通りの調子でタツ兄さんと木場の旦那を気に掛けている(もしかしたら、本気でからかっているのかもしれないけど)。木場の旦那に役立たずと罵られても、何ともない様な顔をしている。そして満面の笑みで私の前まで大股で歩き、顔を覗き込む。

 

 

「何だ、ちゃん。お化けでも見たような顔をして。」

 エノさんの言葉で、私はいつも通りの私に戻る。元気で、明るくて、喧しくて、小生意気な女の子。

 

「失礼な。神を見たような顔ですよ。」

「馬鹿げた漫才を繰り広げている場合じゃないよ、そこの二人。」

「おい、京極、昇降機は?」

 

 木場の旦那が云うので、秋彦兄さんが返事をする前に私は昇降機の前に立つ。そして息を吸い込み、隙間なく閉まって

いる昇降機の扉を無理矢理こじ開けた。

「電力の復旧は、完璧みたいですね。今、昇降機が降りてきます。」

 扉から頭を突っ込み、上を見て云う私の首根っこを秋彦兄さんは掴んだ。

「危ないだろう。電力が復旧しているなら、わざわざそんな事する必要もないだろうに。」

 

 そんなこと、とは昇降機の扉をこじ開けることなのだろう。そうだそうだ、とエノさんも腕を組む。

 

「日常に、戻りたくて。」

 

 

 屋上には、月のスポットライトがあった。銀幕の代わりには、真っ黒な夜空があった。そしてその舞台の中央に陽子さんは立ち尽くし、美馬坂さんは黒い液体の中で倒れ、

 

 

 

 

「久保さん・・・?」

 

 

 

 

 私には、久保竣公という名の魍魎が、美馬坂さんの屍を食っている様に見えた。

 

 

 

 

 

 



 十月も後数日という頃、私は久々に京極堂に向かった。そういえば、事件が終わってから、まだ一度も伺ってなかったな、と思い立ったのだ。事件以来立ち寄らなかったのは、タツ兄さんみたいにそういう風な人間だからではなく、何のことはない、ただ学校で試験が立て続けに出されたからである。だが、ただ行くのもなんだと思い、提出期限があと三ヶ月もある課題に必要な資料について心当たりがないか尋ねに行くことにした。

 

 

 千鶴子さんに案内されて居間に着くと、そこにはすでにたくさんの先客がいた。縁側には色素の薄いエノさんの髪がはみ出しており、その向かいには風呂敷に包んだ本を持っているタツ兄さんがいた。秋彦兄さんの向かいには、鳥口さんの姿もある。

 

 

 

 

 要するに、前回の事件の主要メンバーがほとんど揃っているのである。

 

 

 

 

「やあ、ちゃん!今日もかわいいね!」

 

 エノさんは会う度にこう云うので、私はあまり取り合わずにエノさんの隣に座った。タツ兄さんの隣に座ることも考えたが、エノさんが自分の隣の辺りをばしばしと叩き、座るように促したので、仕方なく私はエノさんの顔の真横に腰を下ろした。なんとなく、気恥ずかしい位置である。だが、それを更に無視してタツ兄さんの隣に座ろうものならまた煩くなるだろうし、タツ兄さんにとばっちりがいくことは容易に考えられた。折角事件の後遺症が抜けたらしいタツ兄さんに、それは可哀想な仕打ちだと思ったのだ。

 

 

 

 

「タツ兄さん、それ、何?」

 

 タツ兄さんが風呂敷に包んでいたのは見たこともない装丁の本だったので、私は首を傾げた。隣では、エノさんがなにやらごそごそと身動きをしている。すると、膝に重みが乗っかってきたので、恐らく膝枕をさせられているのだろう。いちいち咎めているときりがないので、私は気付かないふりをした。幸いなことにタツ兄さんからはこの姿が見えないらしくて何も云わないし、秋彦兄さんはもちろんだんまりを決め込む。鳥口さんは小さな声で「うへえ」と呟いたが、触らぬ神に祟りなし、ということなのかそれ以上は口にしない。

 

 

 

「ああ、僕の本だよ。」

「そういえば、出版されるって云ってたね。これがそうなんだ。」

 まだ発売されてもいない本なら、私が知らないのも当然だ。

 

 

 

「まあ、お祝いをしなくてはいけませんね。」

 

 千鶴子さんが私にお茶を出しながらにこりと微笑む。私も笑った。

 

 

 

「本が出版されるたびにお祝いしてたら、きりがありませんよ。これから何冊も関口先生は本を出されるんだから。ね、タツ兄さん。」

 

 

 そう云うと、タツ兄さんは複雑な顔をした。素直に本が出るのは嬉しいけれど、でもやっぱり嫌なのだろう。この人にとって、自分の書いた小説は遍く私小説だから。自分の内面を書いたものが衆人の目に触れるのが嫌だし、なんだかおかしい気がするのだろう。

 

 

 

 

 

 

 秋彦兄さんは装丁を褒め、いつものように憎まれ口を叩いた。それでも最後にはお祝いの言葉を述べていたのだから、少しは嬉しいのかもしれない。エノさんも一瞬私の膝から頭をあげ、タツ兄さんが持ってきていたもう一冊の『眩暈』をひったくった。

 

 私も欲しかったのに。

 

 ただで欲しかったというわけじゃなくて、まだ発売されていないから早く読みたい、と思っただけである。そう不満を漏らすと、すかさず秋彦兄さんが私と鳥口さんに古本として買い取らないかと商談を持ちかけてきた。私は笑い、鳥口さんは「うへえ」と答えた。

 

 

 

 

 それから木場の旦那の話になったが、それはエノさんが私の膝の上から大丈夫だと太鼓判を押したのですぐに終わってしまった。それからはとりとめもない話や、一応の訪問目的であった課題の相談をした。秋彦兄さんはちょっと待っていろと云って、奥の書斎から数冊の和綴じの本を持ってきた。私はありがたくその本についての講釈を受け、丁寧に持ってきたリュックから取り出した風呂敷で包み、リュックに入れた。

 

 

 

 

 すると、縁側から足音が聞こえたので、私は後ろを振り返った。

 

 

 

「あ、いさま屋さん。」

 妙に大きな荷物を持って現れたのは、いさま屋さんだった。山陰旅行からの帰りだといって、変なお土産をいっぱい見せてくれた。私はその中から青いガラス製の箱と、きれいな布を一反もらった。一体何の布だかわからなかったが、浅葱色の地に散った桜の柄が気に入った。雪絵さんに頼んだら、浴衣に仕立ててくれるだろうか。いや、そろそろ自分で縫えるようになりたいから、教わるだけにしておこう。そして、この浴衣で来年はちゃんと夏祭りに行こう。夏の事件と、この間の事件、両方の被害者の魂が帰ってくる頃に慰めてあげよう。

 

 

 

 そう云うと、秋彦兄さんがまたそんな行事は生きている人のためのものだと云い出すのだろうと思ったから、私は黙っていた。

 

 

 

「それよりね、変な人に会ってねえ。」

 

 

 さて、この青い箱は一体何に使うのか。観賞用だろうか。それとも、細かな細工がしてあるから、やはり鑑賞用?かもしれない。ずいぶんときれいな細工だ。いさま屋さんは一体どうしてこんなものを買ってきたのだろうか。男の人が買うものではないと思うのだが。まさかとは思うが、私か千鶴子さんか雪絵さんがいることをちゃんと考えて?

 

 

 

 いやいや、まっさかあ。

 

 

 

「その人はなんだかとても楽しそうで、うん、幸せそうだったなあ。」

 

 でも、きれいだなあ。

 

 

 

 

 

 いさま屋さんの話も上の空に聞きながら、私は箱を手にしてにこにこと笑っていた。

 








反省会
 これのどこがエノさんドリームだ。

戻る