あお
潮風が解かれた髪を顔に投げつけるので、私は目を瞑った。風が収まって目を開くと、そこには一面の碧があった。 「エノさん、つれてきて下さって、ありがとうございます。」 「ちゃんのお願いなら、お安い御用ダ!」 腰に両手を当てて「わはは」と大笑するエノさんに、私は頭を下げる。 ことの始まりは、何時もの様に突然だった。 古本屋京極堂で、店主と世間話をしながら目ぼしい本はないかと物色していたら、店の入り口に、黙っているだけでも半径二十メートル以内の人間が釘付けになるだろう美貌の神がやってきた。一体何事だろうかと店主と顔を見合わせていると、神ことエノさんは私をひょいと肩に担ぎ上げ、「ちゃんはもらっていくぞ、京極!」と叫びながら運転してきたらしい車に私を放り込んだ。後ろの京極堂店主こと秋彦兄さんの「関口君には連絡しておくから、心配せずに行ってきなさい。」という、薄情な台詞も聞こえたけれど、それに反論する間もなく車は発進した。 「ちゃん、ドライブに行こう!」 「え、エノさん、これって、ドライブっていうよりも拉致に近いんじゃあ・・・。」 「さあちゃん、どこへ行きたい?」 私の反論など神に通用するはずもなく、私は抵抗することを早々に諦めた。こうなったら事態に流されるしかないということを私は伯父から散々聞かされていたので、大人しく「海に行きたいです。」と答えた。 「海か!」 「はい、海です。」 そうして冒頭に戻る。 普段から校則で二つ三つ編みに編んである髪は、着いてすぐにエノさんによって解かれてしまった。エノさん曰く、「僕はちゃんの髪も好きなのだ!」が理由らしい。 よくわからない。 夏も終わり、秋に差し掛かった海には誰もおらず、ただ潮騒だけが辺りにある。 海鳥も貝も何もおらず、生命の源であるはずの海が、生命の営みなどからかけ離れた大きな化け物のように見える。 はたはたと、制服のプリーツスカートがはためく。 「エノさん、突然どうしてドライブに行きたくなったんですか?」 「僕が行きたくなったんじゃない! ちゃんが行きたいと云ったんじゃないか。」 「云いましたっけ?」 「云った、云ったとも! 神の耳は誤魔化せないぞ。」 誤魔化しているつもりはないが、自分にはそんな記憶はない。 エノさんは私の後ろに立ち、私の頭を越えて逆様に目の前に現れた。 「どこか、遠くに行きたいな、って、この間云っていたじゃないか。」 「・・・そんな独り言、よく覚えていましたね。」 「僕は猿と違って、物覚えがいいのだ。」 「そのようですね。」 間近にある、逆様のエノさんに笑って見せた。エノさんも笑う。ひょい、とエノさんは勢いをつけて姿勢を元に戻す。 「海が好きなのか?」 「好きなのはエノさんです。」 「それは知ってるぞ。」 エノさんは後ろから私に腕を伸ばし、私の頭に顎を乗せた。 「海の向こうは、異世界なんだそうですよ。」 「京極の奴が云ってたのか?」 「はい。・・・エノさん、もし、私が他の世界に行きたいと云ったら、エノさんは、どうしますか?」 もし。 もし、私が、 彼岸が、居心地良いのだと。 此岸になど、もう帰らないと。 そう云ったら、彼はどうするのだろう。 一緒に、来てくれるのだろうか。 「愚問だな。」 今度は顎を私の右肩に乗せる。 「ちゃんは、僕の隣以外には行きたくならないから、そんな質問はオロカなのだ。そんな質問は、バカオロカがするのだ。ちゃんは馬鹿でもオロカでもないのだから、変な質問はしては駄目だ。わかったかい?」 そう耳元で囁かれて、私は何も考えずに頷いていた。
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