今月は「桜の木の下には」 「いいなあ。」 「未成年がアルコールを欲しがるな。」 いくら今日はプライベートで会っているとはいえ、生徒の見本となるべき教師の私が許すわけがないだろうに。 呆れて溜め息を吐くと、口元に落ちてきた花びらが舞った。花見にしては少し遅い時期に来ることになったのは、新年度の準備でお互いばたばたしていたせい。やっと落ち着いたときには、既に花吹雪も鬱陶しい時期で、それでも終は「花見に行こう!」と休日の我が家を急襲した。 「半分くらい、葉桜になっちまったなあ。」 「花吹雪も、これはこれで綺麗だと思うけどね、私は。」 花は散り、木の根元に落ちる。 踏みつけられた花びらは茶色く偏食し、どろどろに千切れてそのうち分解されて桜の養分になる。 ちらり、と買ってやった桜餅に食いつく終を見る。 私は多分、彼より早く死ぬ。 それは変えようのない事実で。 それでも。 落ちる花弁を掌で受け止める。 この朽ちる花弁のように、彼の養分となることができれば、それはそれでいいのかもしれない。
『有栖川有栖』よりアリス 版画家先生の呟きに、私は思わず顔をしかめた。 「なんてこと言うんや。」 「思わへん? こんな大量の桜、真っ赤にするくらいなんやから、相当の数の死体やで。」 羽が触れるように鉛筆をスケッチブックに滑らせ、ほう、と溜め息を吐く。 私の方からは横顔しか見えない。芸術の世界に没頭しているときの彼女は、私の方には顔を向けず、どこか違うところを見据えている。 自分も、文字の世界に沈んでいるときは似たような顔をしているのだろうことはよく判るので咎めはしないが、それでも、一抹の不安はある。 「色は塗らへんの?」 彼女の世界に関わりたくてそう尋ねると、やっとこちらに顔を向けてくれた。 「色、なあ。」 こくん、と首を傾げ悩むようにしてから、彼女は酷く人の悪い笑みを浮かべた。 幼い顔立ちの彼女には、不似合いな。 「このスケッチブックいっぱいに塗れるくらいの血を、用意してくれるんやったらなあ。」 よろしく頼むで、人殺し。 紙面の上での大量殺戮犯は、しばし途方に暮れた。
それほど大きな意味もなく呟くと、耳聡い竜堂先輩は「どうしました?」と律儀に聞き返す。 どうしようかな。 私は続けるべきか少し悩む。 別段、重要なことを言おうとしたわけなんかじゃない。ふ、と頭に浮かんで、それがそのまま口を突いて出てしまっただけで。 それは例えば、突然目の前のこの綺麗な人を好きだな、って思って、それを意識する前に口にしてしまうようなもので。 けれども、なんでもない、と誤魔化すには少し間を置きすぎてしまったことに気付いて、私はくだらないことなんですけど、と前置いた。 「春って、先輩に似ているような気がしたんです。」 「春が、ですか?」 柳眉を困ったように寄せた先輩がとても綺麗で、私は少し見蕩れた。 だって先輩、春ってとても荒々しいものなんです。 この桜はあんなに綺麗なのに、春風はそれを乱暴に振り払ってしまうんです。 とっても綺麗なのに、とっても激しい先輩に、とても似ていると思うんです。 そう教えてあげようかとも思ったけれども、先輩の困った顔がとても綺麗で、それが消えてしまうのが惜しくて、私はちょっと笑って走り出した。
『京極堂』より榎木津礼二郎 「桜の木の下には、死体が埋まっているのだよ。」 誰がそう言ったのかは覚えていない。書痴の秋彦兄さんだったか、作家のタツ兄さんだったか。そのどちらかだろうとは思うのだけれど、何故か思い出せない。 「あなたが、蜘蛛だったのですね。」 そう告げたのは秋彦兄さん。 それを見守っていたのはタツ兄さん。 なら、私は? 私はそのとき、どこにいた? 何故、この光景を知っている? 「幻覚だよ。」 我に返る。 エノさんの声だ。 「クモなんか、どこにもいないじゃないかっ!」 顔を上げる。そこには桜吹雪。 なら、この血のにおいは? 「地面から、死体のにおいがしているだけダ!」 自信満々の声に、私は少し笑う。 「そう、ですね。」 エノさんが言うのならそうなのだ。 ここは織作家ではないし、血のにおいは、死体のにおいがしているだけのこと。 ただ、それだけのこと。 「そうだ! 君は僕の言うことだけ、信じていればいいのだ!」 姿が見えなくても。
『有栖川有栖』より火村英生 本の散乱している中で本を広げていた大家の孫娘は、突然首を傾げて尋ねる。 「本当に、桜の木の下には死体が埋まっているのでしょうか。」 「そりゃ埋まっているさ。生き物の死体は空中分解するわけじゃないからな。桜の木の下であろうとなかろうと、須らく土に埋まっている。」 レポートから顔を上げずに答えると、なるほど、と孫娘は呟く。 おいおい、この程度の言葉遊びに納得するなよ。 呆れてなにか言おうかと思った直後、再び少女は首を傾げた。 「ならば、死んでも、寂しくないですね。」 良かった、と二親と死別している少女は少し笑う。 「私は両親と別れて寂しいけれど、両親は賑やかな土の中で、楽しく暮らしているんでしょうね。」 なら、死ぬのも悪くないんでしょうね。 どう答えるべきか悩み、死にコンプレックスを持つ助教授はがしがしと頭をかいた。 「出かけるぞ。」 「はい?」 「花見に行く。作家先生と版画家先生も呼んでな。」 春は鬱になりやすいんやて、と雑学を披露してくれた親友の顔を思い出しながら、ぱたぱたと用意を始める少女に溜め息一つ。 |